源聖寺のホームページにお越しいただき有難うございます。
当寺は大阪市の中央を南北に走る通りの一つ、松屋町筋に面しています。そこには浄土宗寺院が24ケ寺、ほぼ一直線に並んでいます。北から5番目が源聖寺です。
南側には天王寺七坂の一つ、「源聖寺坂」があります。昔は上町台地の上と下を結ぶ道が無かったので、七坂が作られたと聞いています。源聖寺もお寺の土地を提供して坂にしたのだそうです。
源聖寺坂は途中で曲がっていますので、上から下ってくる時の景色が変化に富んでいて、とても楽しい坂です。 こうした場所にありますこの源聖寺は、阿弥陀様をお護りし、法然上人様のみ教えを広めてゆく浄土宗寺院で、創建されてより420年が経ちます。
私は、この寺の第23代住職です。私はこのお寺が、お檀家様の皆さまだけではなく、多くの方々に集って頂けるお寺にしたいと考えております。毎朝6時にお寺の門を全て開け放って、どなたでも入って頂けるようにしております。
また、先に旅立たれた、皆様の大切な方々のご供養を、安心してお任せいただけるお寺で有りたいと考えます。お位牌や過去帳をお預かりしたり、永代供養墓併設の納骨堂で、ご遺骨のご供養をさせていただいたり致しております。 さらに、このお寺にお越しいただき、沢山の仏様とめぐり合い、み仏の慈しみの心を感じ取って頂ける魅力あるお寺にして行きたいのです。 このホームページから、この想いを感じて頂けたら有り難いです。
合 掌
当寺の第七世浄誉上人(じょうよしょうにん)の書かれた源聖寺縁起によりますと、当寺を建立(こんりゅう)された初代は、深蓮社遠誉上人荷公和尚(じんれんじゃおんよしょうにんかこうかしょう)とおっしゃって、奥州衣川(おうしゅうころもがわ)(岩手県)の出身で、継母の妬みにあい、父の勧めによって常陸国瓜連(ひたちのくにうりづら)〈茨城県〉浄福寺にて出家し、六十歳の時、慶長元年春、諸国行脚に出られ、西成郡寺嶋〈現在の大阪西区九条あたり〉に草庵を結ばれました。従って、東国より来て行業(ぎょうごう)〈仏道の修行〉を西海の岸に営んだ故に、その寺名を東営山西岸寺(とうえいざんさいがんじ)と名付けられました。
また、安阿弥(あんみ)が彫刻した二尺五寸の阿弥陀如来像をご本尊として祀っていましたが、大坂の陣の際に、戦乱によって失われてしまうことを案じて、初代遠誉上人はご本尊像を寺地の前の浜辺から海に流されました。大坂の陣の後、徳川家康の治世になって世の中が安定すると、浜辺で光明を放つものがあり、確認してみると海に流したはずのご本尊像でした。この像を拾い上げ、民家を譲り受けて寺観を整えて、そこでお祀りされました。その際、初代遠誉上人は、源空上人(げんくうしょうにん)浄土宗開祖法然上人(ほうねんしょうにん)のみ教えを源とし、吉水(法然上人がお念仏の教えを説き広めた地、現在の知恩院付近)の流れを汲む聖ということから、寺名を「東営山西岸院源聖寺」と改められました。
その後、徳川家康が大坂の町並みを整え、各所に散在していた寺院を一か所に集め、摂州西成郡大坂西寺町に当寺も移りました。遠誉上人は、元和四年(1618)12月1日に八十九歳で正念往生(しょうねんおうじょう)されました。
なお、遠誉上人は、源頼朝が富士の牧狩りで用いた羽釜を父より譲り受けており、それ薬湯が出たといわれる由緒ある釜で、寺宝として伝来しておりました。初代遠誉上人並びにその釜のことは、「京童跡追」という書物の中に詳しく紹介されているということですが、残念ながら今日その釜は現存していません。
江戸時代初期に建てられた本堂は、凡(おおよ)そ9間四方の規模であったのですが、昭和48年に不審火により焼失。現在の本堂は、先代住職により平成2年に再建されたものです。
さらに、当山本堂内には、本尊阿弥陀如来立像の他、木像の延命火除地蔵尊(えんめいひよけじぞうそん)〈光のお地蔵様〉をお祀りいたしております。この仏様は鎌倉時代のお仏像です。境内には、救世観世音菩薩様(ぐぜかんぜおんぼさつさま)〈花の観音さま〉・弁財天様(べんざいてんさま)、さらに聖蓮堂〈納骨堂〉にはお釈迦様をお祀りいたしております。
06-6779-3625
大阪市天王寺区下寺町1丁目2番25号
源聖寺 第23代 住職
橋本 幸典
御朱印